Tuesday, January 18, 2011

本当のキリスト教は一体何なのか?! (日本語/In Japanese Only)

このエッセイを書いた目的を述べるにあたり、まず簡単に自己紹介をさせて頂く。私は、元々アメリカで生まれ育ったハーフで、父は九州出身の日本人、母はフランス系のヨーロッパ人だ。私が初めて来日したのは、父の転勤で16歳の時だった。その時は、日本語が一言も出来なかったので、高校は当然インターナショナルスクールに入った。その後、上智大学の比較文化学部(比較文化学科)に進学し、そこで日本語を専攻した。しかし、当時は精神的に不安定だったため、じっくりと腰を据え、落ち着いて勉強が出来なかったため、中退することにした。一年ほどフリーター生活を送りながら、教会に通い始めた。最初のうちは、キリスト教に興味を持っていたというより、外国人が集まる教会だったため、孤独感を解消する、あるいは友達を作ることが目的だった。しかし、毎週日曜日に礼拝に通っているうちに、牧師様の熱い説教が段々自分の心の深淵に染み入ってくるようになり、最終的にイエス・キリストを自分の救い主として受け入れることができた。その後、暫くしてアメリカに帰り、仕事をしたり、大学に戻ったりした後、今度は社会人として再び来日し、数年経って永住権も得ることができた。都合、日本滞在は約13年間になる。

その間、数多くの日本人との触れ合い、もちろん聖書やキリスト教のお話も沢山したことがある。議論が熱くなった時もあったし、相手が全く興味を示さないような時もあった。しかし、話す相手は誰であろうが、強く感じた一つの共通点として、一般的な日本人はとにかくキリスト教の根本的な教えを知らなすぎると言える。これは、別に私がキリスト教信者だから言っているのではなく、社会人の一般常識レベルとして言っているのだ。

私がずっと不思議だと思っていたのは、日本人は西洋文化、特にアメリカを異常なほど崇拝していながら、西洋文明を生んだキリスト教の多大なる影響を見逃している点だ。西洋人に対する劣等感はこれほど強くなったのはいつごろの時代だったか忘れたが、「我々日本人は、今後積極的にヨーロッパ人と交際をしていきましょう」という日本政府の提案も背景としてあったようだ。現代の日本人はジーンズをはくし、マクドナルドのハンバーガーを食べるし、電気・車・パソコンのような先進技術の模倣・導入にも見事に成功している。しかし、西洋文明の表面ばかりを見ているだけで、その裏にある一神教の精神を認識していない。それを裏から支えている永遠の聖書の教えを理解していない。世界史を二分したイエス・キリストという人物を知らない。物事の本質を見抜くためには、その建前だけではなく、その裏にある本質も理解しなければならない。でないと、いつまでたっても暗い闇の中で歩いているだけで終わってしまう。

ここで一つ質問がある。モルモン教はキリスト教の一つの派だと思われるか?もし、「はい」と答えたのであれば、失格だ。なお、日本でしっかりとした英語力を身につけたいと思っている方々も多いが、英語という言語に一番影響を与えたものは何かご存じか?もちろん聖書に決まっている。聖書なしでは、偉大なシェークスピアの存在もなかったと言っても過言ではない。なお、現代英語として使われている数え切れないほどのイディオムや熟語は聖書から直接来ている。英語で聖書を勉強すれば、英語が上達するだけではなく、その背景にある英語の精神とエッセンスも吸収出来る。

長文になってしまったが、自分の長年のクリスチャンとしての経験を元に、キリスト教の根本的な教えをお伝えしたいと思い、このエッセイを書いた。その一番の理由は、読んで下った方々に信者になって貰いたいのは勿論だが、それよりも、社会人として客観的にキリスト教は何なのかということを、きちんと理解頂きたかったからだ。ただ、それだけだ。グローバリズムの狭間にあって、世界宗教と、インチキ・オカルト宗教団体をきちんと区別出来ないのは恥ずべきことだ。それに、歴史上最も売れている本である聖書は、現在に至るまで歴史に余りに多大な影響を与えてきており、決して無視出来ない存在だと思うからだ。この偉大な本には、一体何が書いてあるのかについて、つゆほども信じてもいない(偉そうな)大学教授やダーウィン主義者の観点からではなく、(出来れば)本物のクリスチャンの視点で、心を開いて頂いて少し勉強して頂ければ望外の喜びだ。

【1】
まず、お伝えしなければならない点として、キリスト教は哲学的基盤として「性悪説」の立場が徹頭徹尾貫かれている。つまり、人間は生まれた瞬間から罪人であるということだ。聖書によれば、この世の中にいる全ての人間は例外なく罪人であり、完全無欠の人間は最初から存在しない。だれでも、あなたのお父さんやお母さんや、オバマ大統領、マザー・テレサ、勿論私だって、計り知れないくらい恐ろしいほどの罪人だ。自分が今まで殺人事件を起こしてないからとか、ヒトラーでないからとかと言って決して誇ってはいけない(ちなみに、自己満足で自惚れているのも罪だ)。よって、間違いなく、あなたも罪人である。世の中を見回して、これ以上はっきりした事実はない。また、聖書の定義によれば、罪人であることによって、神様の律法を破っていることになる。
誰もが罪人であるというもう一つの証拠は、人間の心の底にある善悪の判断(理性)の声である。この世の全ての人間は、たとえこれまで聖書に接したことがなくても、神様の道徳律が人間の心に書かれていると言える。つまり、人生では様々な選択肢に直面する場面があるが、その際、自分がこうしたいというのとは別に、心の底から「こうすべきである」という小さな声が聞こえる。英国の小説家C.S.ルイスが示した、良い例がある。人が湖で溺れそうになっているのを見た瞬間、どうするかを決める時に頭の中に下記二つの選択肢が思い浮かぶ。

1) すぐに水に飛び込んで助ける

2) 自分も危ない目に遭うかもしれないので助けない

しかし、これに加えて実はある発想が働く。それは「2」を選ぶより、「1」のほうがモラル的に優先すべきであるというもう一つの声だ。この声は、あらゆる場面で出てくる。物を盗むか盗まないか、浮気をするかしないか、アダルトビデオを借りた時に店員さんが女性だった場合の恥ずかしさ、仕事の経費を誤魔化したりする時等々、色々な場面でこの声が私達の欠点を鋭く指摘し、どうしようもない罪人であることを思い出させてくれる。罪人である限り、私達は決して神様に近づくことが出来ないどころか、そういう願望すら生まれようがない。無意味な人生しか知らないと、お金、セックスや仕事を崇拝の対象となってしまう。まあ、常識として考えてみれば、神様の存在がなければ、そう考えるより他ないだろう。

ひとまず、ここまででしっかりと押さえておきたいポイントは、とにかく私達人間というのは、精神的な「癌」にかかってしまっているということだ。神様の律法を完璧に守っている者は一人もいない。それで私達の力だけではこの病気を治すことは不可能なのだ。何も出来ない。はっきりって、絶望的な状況である。だから、私達には救い主が不可欠必要なのである。聖書によると、このポイントは基本中の基本命題となっている。ここからスタートしなければならない。まず、きちんととこの点をご理解頂きたい。

【2】
さて、私達人間は罪人であるという結論に至ったのだが、適切な処置を施さないとどうなるのか?まず、当然の結果として、私達はいくら頑張っても人間同士だけでは、決してお互い平和に暮らせないということである。麻薬密売や殺人のような様々な犯罪を起こしたり、歌舞伎町や吉原のような売春街を作ったり(風俗業は法律に認められているが、特にひどい例だと思う)、世界大戦を引き起こしたり、人種差別をしたり、特段の理由なく他人を妬んだり、憎んだり、見下したり等、どうしても避けられない。このような悪い行為・結果は、日々数え切れないほど目にする。

しかし、上記にリストアップした罪の数々をひとまず横に置き、それより、もっと深刻なことはこれまで積み重なった罪のために、神様に対して莫大な借金を背負ってしまっているとでなる。我々の司法制度も(これは元来聖書に基づいて出来ているが)同じである。刑事犯罪を犯すと、裁判を通じて犯した罪に相当する量刑が下され、懲役や罰金が求められる。また、民事の争いの場合は損害賠償が求められる。有り体に言えば、大体の場合は、お金で解決出来るものである。しかし、犯罪を犯せば牢屋に入れられる。あまりにも残酷な犯罪(殺人等)の場合、いくらお金を払っても、それに相当する償いにならないので無期懲役や死刑となる。

さて、私達の罪に対する賠償はいくらか?正直言って、数値化するのは不可能だ。いくら頑張っても、どんなに偉業を行っても、完全無欠な人間でないかぎり、神様が要求する賠償を払うことは無理だ。なぜなら、神様自体は完全無欠の存在だからだ。神様のいる宇宙で平和に暮らそうと思えば、自分も完全無欠でないといない。完璧さだけが唯一の基準になっている。先にも申し上げたが、今までの人生で犯した罪がどんなに少なくとも、自分勝手な判断で今まで犯した罪はそんなに多くはないといくら説得しようとしても、全然関係ない!
神様が要求される条件は、一切罪のない完全無欠な基準だからだ。

「そんなの、ふざけるな!」「不公平じゃないか?!」と騒いでも、関係ない。
基準は基準だ。例えば、東大に合格したいのであれば、東大が定めた点数を取るしかない。入試に合格するため、一生懸命頑張る人もいるし、それ程頑張らない人もいるかもしれない。でも、それは関係ない。結果が全てだ。合格すればよい。ぎりぎりでも合格基準を満たせば合格だ。逆にどんなに惜しくても合格ラインを越えなければ不合格だ。文句を言っても全く無意味だし、時間の無駄だ。言っておくが、この宇宙は神様の所有物である。あなたが生まれる前から存在しているし、あなたが死んだ後も存在し続ける。このような状況の中で、反抗的な態度を取り、神様に向かって、「そんなの不公平じゃないか」などと言うのは、かなり強情・無理筋な話だ。

では、ここで押さえておくべき二番目のポイントとして、私たちの罪は神様に対する冒涜(ぼうとく)であり、いくら頑張っても返済することが出来ない膨大な借金であるということだ。そして、この罪が、私たちと神様との間のとても大きな壁となっている。しかし、私たちは、神様から離れている。神様を知らないし、知ろうともしない。一体どうしたらいいのか?!

【3】
ここまで読んで下さった方は、人類はどれほど救いようのない病状に堕落しているかがよく理解できているはずだ。では、この状態で私達は一体どうしたらいいのだろうか?答えは「自力では何も出来ない」である。100%神様に依存するしかない。しかし、神様は一体どのようにして、私達を救うのか?「ただただ、私達が背負っている罪の借金を払ってくれる」というのが正しい回答である。人間は罪人でありながら、神様に近づけないから、罪人である立場を変えなければならない。しかし、これは口で言うほど簡単なことではない。では、具体的に神様は何をするのか。

まず第一歩として、世界の国々は司法制度や政治体制があると同様に、神様を代表とする国と政府を制定しなければならなかった。(正式な日本語で言えば、神権政治というものだ)。そこで、ユダヤ民族が選ばられたのだ。正確に言えば、アブラハムという者を選び、契約を結んだのだ。これは、神様と人類の間の一番最初の契約だ。現在では旧約聖書と呼ばれている。こちらの契約の主な内容は下記の通りである。

―ユダヤ民族は神様の愛と立法を世界の人々に紹介するため、特別な役割を果たすこととなる。
―エルサレムが含まれているイスラエルという土地はユダヤ民族の永遠の所有物となる。
―イスラエルの種から世界の救い主が生まれる。

神様は、私達の罪の借金を返済するため、約4000年前にイスラエルで生贄制度を設立した。その仕組みは基本的に現在の司法制度と一緒で、罪を犯すと罰金を払わなければならないというものだ。ただし、当時はお金で支払うのではなく、動物の生け贄だった。理屈としては、人間が犯した罪の借金は、その動物に被ることとなる。その動物は、私たちの身代わりに死んでくれるので、私達は死ななくても良くなる。生贄制度の目的を要約すると、下記のようになる.

ー年中に数々の動物の死は人間が根本的に罪人であるということを忍ばせるものとなる
ー罪を清めることなしで神様に近づくことは不可能であることを教えてくれる。
ーイエス・キリストの究極的な犠牲を予示されている。

ここで押さえておきたい三つ目のポイントは、神様が自分の存在を世界の人々に紹介するために、イスラエルという国を作って、生贄制度を設立したことだ。

【4】
古代イスラエルの律法と生贄制度は人間の罪を清めるため、あくまで象徴的なものであり、最終的な解決策ではなかった。究極の犠牲を払ってくれる存在(=メシア)はまだ現れていなかった。しかし、旧約聖書にはこのメシアとなる者の登場は預言されていた。預言は全部で600以上あるが、下記ものが一番有名だ。

ー神様の聖霊により、処女マリアから生まれること
ーダビデ王国の血統から生まれること
ー誕生の場所はイスラエル・ヨルダンのウエスト・バンク地域の都市ベツレヘムとなる
ー完全無欠で、罪のないものである
ー肉体となった神様そのものである

約束された時に、イエス・キリストがこの世に生まれた。これが歴史的な大転回となり、西洋歴の紀元となった。イエスは33歳まで様々な奇跡と偉業を行った。そして、最後に世界の人々の過去・現在・未来の罪の借金を払うため、自分の命を犠牲にして下さった。別名、キリストの十字架上の死として知られている。この犠牲を払うことにより、イスラエルで行われていた生贄制度の必要性がなくなり、ユダヤ民族に限らず、全ての人々の罪から救われるきっかけが出来たわけだ。なお、論法としてなぜイエス・キリストは完璧な犠牲になり得たのだろうか?回答は簡単である。罪のないものだったから、人類の代わりに、罪の汚れのない自分の命を捧げたのだ。罪人の代わりに罪人が死んでくれても無意味だから、罪のない完全無欠な犠牲でなければならない。これは福音書の根本である。

【5】
ここまで読んで下さった信者でない方々は「何て素敵なおとぎ話だね」と言うかもしれない。「しかし、真実として受け入れるのであれば、証拠が必要だね」と言っているかもしれない。ここで一つのヒントを差し上げよう。お釈迦様のお墓に行けば、遺体が火葬された遺灰がある。イスラムの預言者モハメッドのお墓に行けば、風化した遺体がある。しかし、エルサレムにあるイエスのお墓に行っても遺体はない。イエス・キリストが十字架につけられて、三日後に死体のうちより甦ったのは最も立証可能な史実の一つである。このポイントを軽んじていけない。再度断じて言う。イエス・キリストという歴史的な人物が死に、そして葬られ、三日後に甦ったということは最も立証可能な史実の一つである。 ローマ皇帝ユリウス・カエサルが存在していたということより確かな証拠がある。キリストの復活には疑問を禁じ得ない方々にとって、ここで一つの面白いチャレンジングな課題を差し上げよう。キリストの復活を反証してみて下さい。現在この世の中にいるどんなに優れた、どんなに偉い弁護士であっても、どうぞ反証して見て下さいと言えるくらいこの事実には100%の確信がある。全ての懐疑論者にも同じことを言いたい。しかし、この挑戦を引き受けるのであれば、すりにご注意!このイエス・キリストの復活という歴史的な事実をひっくり返そうとした方々が今まで数多くいたのだが、例外なく皆失敗に終わっている。その中には、かなり公明な弁護士、歴史学者や考古学者もいた。

イエス様が十字架につけられて遺体を埋葬されてから、わずか数日後にイエスの弟子達がまるで狂ったかのようにたった一つのメッセージを熱く語ったのだ。「イエスは復活した!」「イエスは復活した!」「イエスは復活した!」と度々伝えてきた。拷問を受けても「イエスは復活した」。牢屋に入れられても「イエスは復活した。」そして、最後に皆殺されても「イエスは復活した」と叫びなからこの世を去った。さて、ここで少々考えて頂きたい。イエスの弟子達を黙らせたかったら、どうしたらいいと思う?話は簡単だよ。遺体をよこせればいいのだ。それだけだ。イエス死体を提示しさえすれば、キリスト教はまだ蕾の状態で摘み取ることが出来たでしょう。しかし、そうはならなかった。そのうちに、ローマ帝国を支配した程の勢力になってきた。

「弟子達がイエスの遺体を盗み、隠してから真っ赤なうそを広めようとした」と疑われている方もいるだろう。この推測には様々な問題があるのだが、まずは真っ赤の嘘を元に、もっともらしい教えを広めようとするのはこれ以上の矛盾はないだろう。しかし、それより、もっと有力な証拠となっているのはもし弟子達が本当に遺体を隠して嘘をついたのであれば、嘘だと分かっていながら、嘘をついていた。これは相当なものだ。つまり、歴史の中で嘘のために死んでいった人々は沢山いたが、彼らは嘘ではなく、心から真実だと信じた上で命を捨てたのだ。しかし、もし弟子達が企んで遺体を盗んで隠したのであれば、「イエスが復活した」のは嘘だと分かっていながら、自分達の命を捨てたとこになる。普通に考えて、こんなことはないだろう。

イエスの復活を反証するため、他にも色々な説があるのだが、ここで全部回答しようとしたら、相当な長文になってしまうので控えさせて頂く。ひとまず、ここで押さえておきたいポイントはキリスト教の根幹はイエスの復活である。イエスの復活なしでのキリスト教はありえない。キリストの復活は他の宗教に比べて最大の差別化の点だと言っていい。これを否定したら、キリスト教ではなくなる。

【6】
キリスト教の復活の教えについて語ったが、もう一つの大事な教えについて話をしたいと思う。それは、イエスのアイデンテティーのことだが、つまり、イエス様は肉体(人間)となった神様であるということ。まず、聖書に記載されている以下のイエスの言葉を見てみよう。

「私と全能の神様は一つである」―ヨハネ福音書10章30節

「わたしが神様におり、神様がわたしにおられることをあなたは信じないのか」。―ヨハネ福音書14章10節

そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。―ヨハネ福音書8章57-58節

「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」
―マタイ福音書28章18節

他にも色々あるが、代表のものとして、上記を使う。さて、これらの発言は何かおかしいことに気付づかないのだろうか。自分のことを語るかのように、上記の発言をしてみて欲しい。もしくは、例えば、友達や親に向かって、「私と全能の神様は一つである」と主張したら、どう思われるだろう?変な目で見られるでだろう。ここで強調したいのは、イエスが発したような言葉は、仏教の高僧等が発言するようなこととは訳が違う。上記の発言をよく読んでみて頂きたい。イエスは自分が永遠の存在であり、肉体となった(人間の形を取った)万物の創造主だと主張している。つまり、「私は神様である」と言っている。これは凄い断言である。こういう断言を解釈するには、下記の三つの可能性しかない。

1) 精神病院にいるような完璧な気違いである
2) 人類をだますために嘘をついた恐ろしい悪人である
3) 肉体となった神様である

但し、ここで絶対に主張できないことは、彼がただの品行方正な宗教指導者であることだ。彼は、人間となった神様でなければ、どう考えても崇拝の対象に値しない。

なお、この世の中にある狂信的教団(カルト)は、勝手にイエスの名前を使っているが、この中には彼らが偽造したメシアも数多存在している。彼らや、その他全ての異端の教えには必ず一つの共通点がある。これはイエスが唯一の神様であることを否定している点である。例えば、イスラムの場合、イエスはただの預言者であり、唯一の神様ではない。モルモン教の場合、イエスは始まりも終わりのない永遠の神様ではなく、別の神によって作られた存在だと主張している。
とにかく、ここでしっかりと押さえておきたいポイントとはイエスは人間の形をとった、永遠の、罪のない、唯一に神様であるということだ。クリスチャンであれば、この点に関して、命を捨てても妥協出来ない!

【7】
さて、次に神様の救済計画を分かりやすく説明したいと思う。内容としては、下記のステップとなっている。

1)自分が罪人であることを心から認め、自分の力で自分を救えないことを素直に認める。
2)お祈りで心を開き全能の神であるイエスがこの地球にいらしてあなたの代わりに死んで下さったことを心から受け入れる
る。以下のような感じの祈りで大丈夫。

「イエス様、私は恐ろしいほど罪人である」
自力ではどうしようも何も出来ない。
イエス様は、あなたは全能の父なる唯一の神様である。
私の罪のために十字架で死んで下さってことを心から受け入れます!
有難うございます。
そして、あなたが死人のうちよりよみがえられたことを信じています!
わたしにも永遠の命をください。私の人生を完全にあなたに捧げます。
私を救って下さい。アーメン」

3)もし、あなたが心から上記のような祈りをするのであれば、聖書によれば、あなたはもう救われた人間となり、聖霊があなたの中に既に留まっている。おめでとう!

4)クリスチャンとしての成長のため、良い教会を見つけ、毎週の礼拝に参加して下さい。 その上、少しずつでもいいから毎日聖書を開いて神様の言葉を身につけて下さい。

締めくくりとして押さえておきたいポイントは以下の点である。

【キリスト教】は【宗教】ではない。

「ええ?何言ってんの?」と思われているかもしれないが、断じて申し上げる!

【キリスト教】は宗教ではない。

宗教とは古来、救われるため(もしくは悟るため)に、自分が様々な行為をしなければならないというものだ。例えば、何時間も瞑想をしたり、古代文化の場合、生まれたばかりの赤ちゃんを生贄として火で焼いたりしなければならなかった。つまり、宗教イコール自力で救いを得なければならなかったのだ。しかし、キリスト教はその反対である。神様がその独り子イエスを犠牲にして下さったので、私達は何もしなくても良い!ただ、その犠牲を心から受け入れるだけで私達は救われる。そして、感謝の気持ちがあるから見ず知らずの他人を愛したり、助けたりするような良い行い自然に生まれる。日本文化のような重い義務感や常に罪悪感を持たせるような考え方ではなく、イエス様に対する感謝の気持ちを持って信仰生活を送ることとなる。

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